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高齢期を語る〜著名人インタビュー〜

2014年01月07日

老いの工学研究所提供

榛名由梨さん ~三世代の夢をかなえ入団。生涯現役。今も後進を指導。

宝塚「ベルサイユのばら」初代オスカル 榛名由梨さん

女性たちのあこがれの的、 タカラジェンヌ。艶やかに歌い踊る宝塚の人気を不動のものにしたのが1974年初演の舞台「べルサイユのはら」だった。「ベルばら」で男装の麗人、 オスカルを演じたのが榛名由梨さん。77年には「風と共に去りぬ」でも初代レット・バトラーに扮するなど、つねにトップスターとしてタカラヅカを支えてきた。退団後もステージで活躍する一方、後進の演技指導や「ヅカファン」への歌唱指導など、舞台生活50周年を迎えた今も、生涯現役を貫いている。
「後輩に演技を伝承・伝達することが100年続く、タカラヅカへの恩返しであり、私の役目」という榛名さんにこれまでのあゆみや思い、目標などを聞いた。

――タカラヅカに進まれたきっかけは?
阪急沿線の夙川に私の家がありました。父は関西学院大当時からの宝塚ファン。母や祖母も宝塚の舞台にあこがれていました。私も6歳でタカラヅ力を見に行ったのを覚えています。
「大きくなったら幕のこっち側で見るのではなく、向こう側に立つ。宝塚のスターになる」と宣言し、小学3年からバレエを、5年から声楽、ピアノを習い、中学一年から宝塚コドモアテネで声楽、バレエ、日舞と、ほぼ毎日お稽古事をやっていました。これで受からなかったらおかしいですよね。祖母、母、私。3代の夢をかなえる形で、宝塚に入ったことになります。同期、65人中2番で入り、3番で卒業しました。初舞台から抜擢され、精進もしましたが、たしかに順風満帆だったと思います。

――初代オスカルになられたときの気持ちは?
私は当時、月組のトップスターでお披露目公演も終わっていました。でも、宝塚で「ベルばら」をやると決まり、花、月、雪、星の4組のうちどの組がやるのか、大騒ぎでした。それが月組になり、オスカル役を私につけていただいた。幸運だと思いました。
初演の年の74年3月に父が55歳で病死しました。父は、私がオスカルをやることを知らずに亡くなったのですが、ずっと後ろで見守ってくれている、と思ってやっていました。

――榛名さんにとって「ベルばら」はどんな舞台ですか?
池田理代子先生の同名の漫画が原作ですが、もともとは宝塚のファンの方が「タカラヅカにピッタリだ」と演出家の植田紳而先生に教えていただいたのがきっかけです。私もファンの方に勧められて読みましたが、フランス革命を舞台に男装の麗人が活躍するなんてまさにタカラヅカにぴったり。
オスカル役になり、長谷川一夫先生に演出をつけていただいた。先生は、50年かけて習得された技を全部、私たちに教えてくださった。役者は絶対にそんなことはしません。
たとえば、流し目。先生に「(座席の)いの23番あたり」まで見るように言われ、その通りにやりました。ファンから、「由梨サマと目が合った」と言われたけど、それも先生の教えです。宝物を全部、惜しげもなく伝えてくださった。奇跡だと思います。

――「風と共に去りぬ」のロひげも話題になりましたね。
トップスターが、リアリティのあるロひげをつけたことがなかったからです。コールマンひげでしたが、「ファンの夢を壊すのではないか」と植田先生ともども不安でした。そのため「1幕はひげをつけない、2幕でつける」ことにしたのですが、一週間ほとで「似合っている、ひげがないと物足りない」と評判になり、全部つけるようになりました。ひげは、長谷川先生からいただいたものです。

――退団後の歩みを聞かせてください。
専科もふくめ、25年いて88年に退団しました。その後は、関西でテレピやラジオ、大学で教えたりしていましたが、「舞台に」とお声がかかり、94年から16年間、東京で一人暮らしをしました。この間。コルチャック先生で加藤剛さん、スクルージで市村止親さん、宮沢賢治で三田村邦彦さん、オセローで平幹二朗さん、オイデイプス王で夏八木勲さんや江波杏子さんらと共演し、女優としていろんな役をさせてもらいました。
ただ、母の具合が悪くなり、3年前に兵庫に帰ってきました。その年に母は亡くなりました。

――宝塚音楽学校は、2013年に開校は百周年を迎えました。
私は49回生ですが、記念の式典で客席の最前列の上級生から数えて、20列目でした。歴史を感じます。私などまだまだ若手です。

――2013年は舞台生活五十周年の節目の年でした。最近の仕事や取組みを教えてください。
関西と東京の舞台が中心です。今年3月には五十周年記念で、ミュージカルの「永遠物語~無法松の一生より」を宝塚バウホールでやりました。タカラヅ力で私がやった役で、榛名しかやったことがないのが「無法松の松五郎」だけだったので、やらせていただきました。また。夏には汀夏子さんと「二人のメモリー」というコンサートを開きました。
それと、長谷川先生への御恩返しではありませんが、「ベルばら」や「風と共に去りぬ」などの舞台で後輩に演技指導をしています。長谷川先生に教えていただいたこと、タカラヅカの100年に及ぶ歴史などを後輩に伝えていけたら、こんなに素晴らしいことはありません。橋渡しが私の役目ですから。

――抱負や目標を聞かせてください。
若い人たちに「タカラヅカの美学」を教えたいですね。来春(2014年)から、学生らに宝塚文化創造館で実地指導をします。女子学生には発声や踊り、化粧の仕方を、男子学生には照明やミキシングなどを教えたいと思っています。JTBといっしょにやりますが、宝塚市も応援してくれています。
私は不可能を可能にする世界で生きてきました。年は年ですが、年齢は関係ないと思っています。やる気を持ち、あきらめない心が大事です。無理はしないが、これからもほどほどで自分の人生を楽しみたい。
みなさんにも、「なんでもいいから目標意識を持って、あきらめないで」と言っています。文化センターの生徒さんたちにも、「発表会をしよう。発表会のために、目標を持ってやっていきましょう」と常々、言っています。
私も、感謝を込めてタカラヅカからは私を超える大スターが出るように、また若い人たちを活性化し、彼らの夢をかなえる手助けをしたいと思っています。



2023年11月発売の新刊
なが生きしたけりゃ 居場所が9割」(川口雅裕)

榛名由梨

1945年8月19日生まれ。西宮市立大社中学を卒業し、宝塚音楽学校に入学。63年、宝塚歌劇団に入団。「花詩集」で初舞台。64年、月組配属。68年「ウエストサイド物語」で頭角を現し、73年、月組トップスターに。74年2月にトップ披露公演「白い朝 ロマン・ロマンチック」。同年8月「ベルサイユのばら」でオスカルに。79年月組トップのまま副組長を兼務。82年専科に移り、88年に退団。89年から「ベルサイユのばら」「風と共に去りぬ」の公演の際に演技指導を行う。2013年「株式会社プランニングはるな」を設立。
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